キリストによる救い

ヨハネの手紙第一2:1-2

1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。

今日この聖書の箇所から伝えたいポイントは2つあります。

  1. イエス様は私たちを弁護し、私たちの罪を代わりに背負ってくださる方。
  2. だからイエスに感謝し、罪を犯さないように生きることが大切。

本題に入る前に、手紙が書かれた背景をおさらいしたいと思います。

手紙が書かれた当時、教会では偽教師の問題が顕在化していました。彼らは①イエス様が神だということを否定したり、② 罪を許容したりしていました。そのような状況を聞いたヨハネは心を痛め、クリスチャンたちに対して、罪から離れるように戒めたのです。2:1を見てください。

2:1  私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためで

ここに、この手紙を送った理由がはっきりと書かれています。それは「あなたがたが罪を犯さないようにするため」だと。とても厳しいメッセージですが、冒頭の「私の子どもたち」と言う呼びかけを読むと、ヨハネが愛を込めてこの手紙を書いていることがわかります。ヨハネはただ罪を指摘するだけでなく、この手紙を読む人々が、罪を悔い改め、神の愛に戻ることを願っているのです。

きっと昔のヨハネなら、怒りを込めて、「クリスチャンになっても罪を犯しているあなたがたは、天から火で燃やされるが良い!」くらい言っていたかもしれません。でも、この頃までには、ヨハネの神へのイメージはイエス様によって変わっていました。「裁きの神」から、罪を赦す「愛の神」へと変わっていったのです。

ですので、続く1-2節でヨハネは、愛なるイエスさまについて2つのポイントを述べています。

① 私たちを弁護するイエス

1b しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。

ここに書いてある「私たちの罪のために、それをとりなしてくださる方」とはイエス様のことです。一般的に、「とりなす」と言う言葉はあまり使わないと思いますが、これは「仲裁する」と言う意味です。聖書の他の訳を見ると「弁護する」と書かれています。つまり、イエス様は、神様と私たちの間に入り、私たちを弁護してくださる方だと言うのです。しかも、この方の弁護は最強です。

余談になりますが、私には弁護士の知り合いがいます。彼女は、東京大学を卒業し、その後イギリスのオックスフォードで学んだと言う超エリートです。彼女は依頼者を弁護するために、証拠を集め弁明し裁判に勝っていきます。私も何か困ったことがあったら、優秀な彼女に頼みたいと思っています(笑)皆さんも、もし裁判をするような状況になったら、優秀な弁護士に頼んで弁護してもらいたいと思うのではないでしょうか?

何を言いたいかというと、イエス様は凄腕の弁護士のような方だと言うことです。しかもイエス様は、どんな弁護士もできない案件(私たちの罪の裁判)を引き受け、神様の前で弁護してくださるのです。

適応:

このような弁護者なるイエス様がいてくださるので、私たちは、ただ素直にイエス様の前に自分の罪を打ち明けるだけで良いのです。もう言い訳をしなくていいのです。

私たちは弁護者イエス様のことを忘れると、罪を隠そうとしたり、人のせいにしたりしたくなります。なぜなら、自分が傷つくのを恐れたり、自分で抱え込むには大きすぎると感じたりするからです。

これはアダムとエバのストーリーにも見られるパターンです。創世記3章で、禁断の木の実を食べてしまったあと、アダムたちは素直に神様に謝ったでしょうか?違いますよね。彼らは「御顔を避けた」と書いてある。罪悪感があったのでしょう。それまでは神様と何の隔てもなく交わりがあったのに、彼らは怖くなったのです。それだけではありません。彼らは自分の罪の責任を相手になすりつけていきます。

アダムは「あなたが私に与えた、この女が食べろと言ったから食べたのです。」と言い、エバは「蛇が私を惑わしたので、食べました。」と責任転嫁をしたのです。

これが罪に対する私たちの姿です。言い訳をするのです。自分は悪くないと言い、人のせい、環境のせい、神のせいにしてしまうのです。

でも、イエス様を信じた今、もう私たちは言い訳をしなくていいのです。御顔を避けなくて良いのです。なぜなら、イエス様が私たちのために弁護してくださっているからです。

私たちはただ十字架を見上げれば良いのです。そこには傷つきながらも、私たちのために、「父よ、彼らの罪をお赦しください。彼らは何をしているのかわからないからです」と祈ってくださるイエス様がいらっしゃるのです。だから弁護者なるイエス様に信頼し、罪を悔い改めていきましょう。

と言うことで、1番目のポイントは、「イエス様が私たちを弁護してくださる」でした。2番目のポイントは、イエス様は罪を弁護するだけでなく、「私たちの罪の代価を肩代わりしてくださる方」でもあると言うことです。2節を見てください。

② 私たちの罪の代価を肩代わりするイエス

2  この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。

イエス様こそ「宥めのささげ物」だと言っています。宥めのささげ物とは、神様の怒りをおさめるために捧げた生贄のことです。現代の私たちには、罪のために生贄を捧げるという行為は理解し難いかもしれません。しかし聖書によると、罪とはそれくらい重いものだと言うことがわかります。

イエス様は、私たちの罪、そして世全体の罪のために生贄となられたのです。つまり、私たちが死をもって償わなければいけない罪の代価を、イエスが身代わりとなり払ってくださったのです。ヨハネ3:16-17にはこのように書いてあります。

16  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17  神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神様は、私たちが罪によって滅びるのではなく、また闇の中を歩むのではなく、罪から離れ、聖い生活を送るように願っておられます。そのために、御子イエス様を私たちに与え、私たちを罪から贖ってくださったのです。イエス様が、宥めのそなえ物となり、私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。

適応

私たちは、自分で自分を救うことができません。日々押し寄せる悩みや葛藤から逃れることはできません。神様しか、私たち救うことはできないのです。

私たちには、救い主が必要なのです。

イエス様は私たちを救うために、宥めの供えものとして自らを捧げてくださいました。だから、私たちはただ罪を悔い改め、私たちの罪のために死なれたイエス様に感謝し、罪から離れた生活をしていきましょう。

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