試練の中で守り導いてくださる方

Q. 今までの人生で、試練や困難を経験したことはありますか?

苦しみの時、私たちの視野は狭まってしまい、自分の事しか考えられなくなってしまいがちです。そんな時、同じような辛い経験をしたことのある人からの言葉は、私たちの心を慰め、視野を広げてくれることがあります。私自身も、留学時代にカルチャーショックや言葉の壁で悩んでいた時に、引退された宣教師の方から、『今は大変だと思うけど、この経験が役に立つ時が必ずくるから頑張ってね!』と言われ励まされた記憶があります。既に、海外経験があり苦労されたことのあるその人の言葉は、当たり前の言葉にもかかわらず説得力があり、私の心に希望を与えてくれました。

それはその方が私が通るであろう道をある程度知っておられると思ったからです。同じように、神様は私たちの通るであろう道を分かっておられます。そして将来という視点から、私たちを励まし、私たちを守り導いてくださっている方なのです。今日は、このことをもう聖書から確認していきたいと思います。

使徒の働き 12章1〜17節

今日の箇所は、少し現実離れしたストーリーが書いてあって難しい箇所ですね。どういうことが書いてあるかと言うと、、、初代教会では迫害がひどくなる中で、ヨハネの兄弟ヤコブがヘロデによって殺されてしまいました。ヘロデは、それがユダヤ人に喜ばれたのをみて、今度は教会のリーダーであったペテロを捕らえるんです。しかし、神様は天使を送りペテロを牢屋から救い出しました。そして、その後ヘロデは虫に食べられて死んだ。。。と言うことが書かれています。この箇所を通して、神様は私たちに何を伝えたいと思っているのでしょうか?その一つの答えが、先ほど言った『神様は、試練の中でも私たちを守り導いてくださる』と言うことなのです。 どういうことなのか、今日も3つのポイントで見ていきたいと思います。

1. 神様は私たちの行く先を知っておられる方

今日の聖書の箇所では、ヤコブは殉教したが、ペテロはみ使いによって助け出されました。この記事を読む時に、多くの人が『神様は何でペテロは助けて、ヤコブは助けなかったのだろうか?』と疑問に思います。

この箇所に関わらず、聖書の中には、私たちには理解できないことが出てきます。しかし、そのような時その箇所だけをみて『神様はひどい!』と決めつけてしまうのは危険です。聖書は全体を通して、大きな流れを示しているので、その流れに沿って一つ一つのストーリーを解釈することが大切です。

その流れとは、天地創造→堕落→贖い→回復

実は、聖書はこの大きな流れを軸に書かれているのです。人々はキリストによって救われ、最終的には新天新地(わかりやすく言えば『天国』)へと導かれていくことを教えています。そうです、聖書は私たちの行き着く先がどこなのかを示しているのです。

これは私たちの人生にとっても大切なことす。神様は、私たちの行く先を知っておられ、守り導いてくださる方だと信じる時、たとえ今つらくても 必ず神様が私たちを守り導いてくださるという希望が与えられるのです。

フィリップ・ヤンシーというクリスチャン作家が信仰についてこのように書いています。

『信仰とは、逆から見て始めて意味をなすことを、前もって信じることである。』“Faith means believing in advance what will only make sense in reverse.”

『神に失望したとき』フィリップ・ヤンシー、 p266.

確かに、私たちの人生には、神様がいるならなぜこのようなことが起こるのか?ということがあると思います。(病気だったり、失業だったり、大切な人の死だったり)。多くの人が答えを見出そうとしますが、 結局のところ私たちにはわかりません。でも、神様にはそのことが何を意味するのか分かってらっしゃるのです。私たちがこの神様に信頼するとき(つまり最終的な勝利を信じるとき)私たちの生き方が変えられていくのです。

2.神様は試練の中で助けてくださる方

2番目にみたいポイントは『神様は試練の中で必ず助けを与えてくださる方』だということです。ペテロは牢獄にいるとき、死を覚悟していたことでしょう(にも関わらず眠っていたのは凄い信仰だなと思います、笑)。しかし、神様は助けの手を差し伸べてくださいました。

私たちの人生においても、神様は必ず助けの手を差し伸べてくださる方です。聖書の中では、その約束が何度も書かれています。

胎内にいたときから担がれ、 生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。 あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。 わたしは運ぶ。 背負って救い出す。

イザヤ 43:3-4

神様は、今でも私たち一人一人に目を留めてくださっています。そして、実は私たちが生まれる前から、選び、守り導いてくださっているのです。 自分で生きていると思っても、実は私たちは神様の御手の中で生かされている存在なんですね。その中では、私たちには理解できない試練も起こるかもしれません。でもね、 どんな試練の中でも、神様は必ず助けを与えてくださる方。そして脱出の道も備えてくださっている方なのです。今は分からなくても、きっと今の辛さの意味が分かる時が来るのです。

有名な『あしあと 』という詩はそのことをよく表しています。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

『あしあと 』マーガレット・パワーズ

神様は、私たちが苦しむ時、そばにいて助けを与えてくださる方です。この方に信頼していきましょう。

3. 神様は私たちの祈りを聞いてくださる方。

最後のポイントは『神様は私たちの祈りを聞いてくださる方』だという点です。ペテロが捕まった時、教会の人々彼のために、熱心な祈りを神にささげていました。神様はその祈りを聞かれ助けを差し伸べました。神様は私たちの熱心な祈りを聞いてくださる方です。

普段、どれだけ祈っているでしょうか?どれだけ神様を信頼して祈っているでしょうか?ヤコブの手紙には信じて祈ることについて次のように書いてあります。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

ヤコブ1:6

疑わずにというのは、言い換えれば、結果を委ねるとも言えます。神様なら最善をなしてくださると信じ求めるのです。これは決してご利益宗教のように神様を利用する祈りではありません。むしろ神様を信じ、神様の御心が示されるように委ねて祈ることなのです。ちょうどイエス様がゲッセマネの園で、私の願いではなく、みこころの通りにしてください』と祈ったように、私たちも願いを打ち明け、あとは神様にお任せするのです。

チャック・スミスという牧師は『神様を思い通りに動かすより、私たちが神様の御心の通りに動く方がずっと楽です。』と言いました。そうです。神様は私たちの行く先を知っておられ、私たちを守り導いてくださる方ですから、その方にお任せすることが一番なのです。

まとめ

今日は『試練の中で守り導く方』というテーマで聖書を見てきました。私たちの人生にはなぜ?と思える試練が起こります。たとえその時は辛くても 、必ずその意味が分かる時がきます。神様はすでに私たちに勝利を与えてくださっているのです。

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16章33節

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