心の空しさと心の偶像
みんさんは、心に空しさを感じたことはありますか?誰しも人生で一度や二度は「私は何をやっていたんだろうか?」「何の為に頑張って来たんだろうか?」「このままずっとこんな生活を続けていくのだろうか?」と虚無感を抱える経験があると思います。
たとえば、会社のために一生懸命働いてきたのに、リストラで解雇されてしまうことや、取引先のために一生懸命尽くしてきたのに裏切られてしまうこと、好きな相手のために一生懸命愛を注いできたのに関係が途絶えてしまうこと。私達は追い求めてきたものが手に入らないとき、逆に、手に入ってしまったあとにも、「こんなことのために力を注いできたのか」と空しさを感じることがあります。
ニューヨークのマンハッタンにある教会のティム・ケラー牧師は『偽りの神々』の中で、心の虚しさの原因は、私たちが神以外のもの(心の偶像)を追い求めることによって引き起こされると言っています。このような私達に対して聖書は、消えてなくなるもの(偶像)を追い求めるのではなく、決して変わることのない神に「立ち返りなさい」と語りかけているのです。
偶像を拝むリステラの人々
人々が偶像を拝む性質は昔から変わりません。今日の箇所に出てくるリステラの人々はギリシャの神々を拝んで生活をしていました。神の怒りを受けないように、また何か自分たちの益を得るために神々を崇拝していたのです。
このルステラにパウロとバルナバが福音宣教にきました。二人はこの街で奇跡を行いました。それは生まれつき歩くことができなかった男性を癒やしたのです。聖書には彼は「飛び上がった」と表現されています。
この奇跡は象徴的な出来事だと思います。それは、偶像崇拝をする人々が、神に立ち返る時に何が起こるかを表しているからです。特に、原典のギリシャ語をみると、この「飛び上がった」という言葉には、ハロマイという言葉が使われていますが、この言葉には他に「湧き出る」という意味があります。そして同じ言葉が、ヨハネの4章にあるサマリヤの女のストーリーでイエス様が彼女に言われたシーンで使われているのです。
しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
ヨハネ4:14
『この永遠のいのちへの水が湧き出る』という言葉にハロマイが使われいるのです。それは、偶像ではなく、生けるまことの神を求めるときに、心が満たされるということを表しているのです。ヨハネは霊的な真理を描写しましたが、ルカは医者らしく物理的な変化に着目しています。つまり、飛び上がることも、湧き出る喜びも、共に私たちが偶像から離れ、イエス様に従うときに与えられるものなのです。
人々の空しさに焦点を当てるパウロ
この奇跡を目の当たりにした人々に、パウロは偶像から離れて生けるまことの神に立ち返るようにと説得しました。
・・・あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。
使徒14:15
ここでパウロが人々の心に訴えかけていることに注目したいと思います。決して、『あなたがたの行いは間違っている』とか『私の方が正しいから教えてあげよう』というスタンスではなく、『このような空しいことから離れて・・・』と彼らの心の空しさに焦点を当てて話しているのです。このメッセージを聞いた人々は、きっと自分たちの心の空しさや、神々への恐れや不安、などの感情を思い起こさせられたことでしょう。そして、パウロは、偶像から離れて生ける神に立ち返る時に、人々の空しさがキリストの平安で満たされるのだということを語ったのです。
偶像は平安を奪い、まことの神は平安を与える
私たちの心はどうでしょうか?もし、心の空しさや疲れを感じているのであれば、気づかない間に心の偶像を追い求めてしまっているのかもしれません。偶像は私たちから平安を奪いますが、まことの神様は平安を与えてくださる方なのです。神様は、偶像を追い求め、心の空しさを抱える私たちのところに人となり、イエス・キリストとして来られ、私たちがまことの神に立ち返ることができるように十字架の上でその愛を示してくださいました。
つまり、イエス様は十字架に掛かることによって、私たちが生けるまことの神様に立ち返る道を備えてくださったのです。それは何よりも、私たちが生けるまことの神に立ち返り、平安の中で生きることができるようになるためだったのです。
もし、偶像を追い求めているのであれば、生けるまことの神に立ち返りましょう。神様はあなたが帰ってくるのを待っておられるのです。